大人になってから気づいたライブの一体感、人類が群れであることの強み

 

子供時代、母がアイドルやヴィジュアル系バンドのファンで、よくライブに連れて行かれていました。祖父母(父方)と同居で、何かと祖母に強く言われてはムッと黙って言い返せない母の息抜きタイムだったのかもしれません。

 

今にして思うと、私はそんな母の肩を持ちたくて同じ音楽を聴き、ライブについて行っていただけで、本当に好きだったアーティストは1つか2つぐらいだったかと。子供からしてみれば、いきなり母親にプイッと出ていかれてしまっては大変ですからね。

 

暑さ寒さの中、列に並んで、時には開演時間が遅れ。90年代から2000年代初頭の時代で、演者もスタッフもどこか偉そうだったのが嫌でした。大人になるとわかるけれど、彼らは神経を使う仕事でピリピリしていただけなのかもしれません。

 

ライブの楽しみ方がよくわからないまま何度も足を運んでいました。あれだったら祖母と留守番してハンバーグか何か夕飯を作るのを手伝っていたほうがよかったかも。

 

みんなが崇めているアーティスト様と、どう向き合ったらいいのかわからなかった。楽曲と派手な演出で盛り上げさせられた心の、もっていき方がいまいちわからなかったのです。楽しませてもらったお礼にとプレゼントを贈っても、それに対して何かお礼やリアクションがあるわけではないし、そもそも見返りを求めて何かを贈るというのもむなしいこと。

 

アーティストのこちらへのパフォーマンスも一方通行なら、こちらから彼らへの好意の一方通行な気がしていました。「楽しかったといえば楽しかった、でも、だから何なんだ?」的な。日常の憂さ晴らしか、ただの見世物か。次に繋がらない消費行為でしかなく、「本当にあれは何だったんだ?」と。ならば祖母の手伝いで餃子のレシピでも覚えたほうが、よっぽど次に繋がりそうです。

 

その認識がちょっと変わったのが、つい最近でした。2年ほど前から海外の某ロックバンドが好きで、じわじわと欧米で人気上昇、来日公演も行われる運びとなりました。

 

彼らの本国とアメリカ、ヨーロッパ諸国以外ではまだ日本にしか来ておらず、私たちが海を越えずとも日本で見られること自体がありがたい。いよいよ彼らが目の前に、という感動が聴衆の間に満ち満ちていくのが感じられます。

 

ライブが始まり、2曲目が終了。感極まったのか客席からそのバンドの名前を呼ぶ声が止まず、一つのリズムを成しはじめました。私もみんなと一緒に手拍子をし、バンド名を叫びます。するとバンドのドラマーが、リズムをまとめるかのようにドラムで応じました。

 

「つ……通じた!!!???」

 

音楽も言語だ、と聞いたことがあります。言語は国や地域ごとに違っていて、違う言語だと通じないですが、音楽なら誰とでも通じる、とも。私は英語が得意ではないので、ボーカルのMCも断片的にしか聞き取れていません。「音楽で通じた!」と感じた初めての瞬間でした。

 

ライブはそのまま盛り上がり、ラストの曲では客席に降りた1人のメンバーを真ん中あたりの観客が胴上げ。少し早い夏祭りのような時間でした。

 

後日、YouTubeを見ていたらそのライブの動画が上がっていました。私のいた位置の斜め後ろぐらいにいた一般客のスマホ撮影のものです。「そうそう、こんな感じだったな」と振り返って視聴していると、あの夜は会場全体が一つの生き物のようだったな、と感じられます。

 

アーティストを見て「個人 対 個人」の関係を期待してもむなしいだけ。「プレゼントを贈ったのに何も起こらなかった」みたいなとんちんかんなやり取りになってしまいます。「団体 対 団体」がさらに一つの団体になる、その司令塔的な存在がアーティストなのかもしれません。

 

私は子供時代はひとり遊びが好きで、大人になってからも一人旅など単独行動を好みますが、人間というのは群れの生き物。よくよく考えてみれば、顔も名前も知らない大勢の人々の連携で、今の社会が成り立っています。

 

ライブで「私たちと通じた!」と思った相手も、そう考えると「ドラマーのSさん」という個人ではないのかも。ドラマーのSさんも、私も、YouTube動画の撮影者さんも、一つの生き物を成す器官や細胞の一部みたいに感じられます。

 

子供のころは「有名人は偉いんだな、自分も有名になりたい」と漠然と思っていましたが、件の来日バンドは活動の利益を慈善団体に寄付しているそうです。そう考えると、有名になることもまた、世界の平和や調和のための手段にすぎないのかもしれない。自らがその司令塔になって、というのは彼らをカッコよく理想化しすぎかな?

 

だけど、人類はこうして群れで、団体で生きているのだ、というのは忘れないでいたい視点だと思いました。群れであることの災いもあるけれど、世界に平和をもたらせるかもしれない、それは一つの希望かもしれません。